高校生の時の話
こんばんは、とらパパです。
始めにお断りしておきますと、今回は平取、振内とは関係のない話です。農業は少しだけ関係するかもしれません。
私の高校時代の遠い記憶になりますが、もしお時間あればお付き合いいただければと思います。
私は高校生の時、1年間アメリカの高校に交換留学に行きました。場所はアメリカのアイダホ州。アイダホ州の中でも東の端にある小さなHamer(ヘイマー)という町で疑いようのない本当の田舎でした。
アイダホ州は左上のシアトルのあるワシントン州、オレゴン州の右側(東側)です。私が住んでいたのはハートマークがあるところ
誤解のないように言っておくと、私は住んでいた場所が大好きです。日本では経験したことのないような自然環境、濃い人間関係、家族のきずなの深さ。立地もアメリカで人気のイエローストーン国立公園も日帰りで行けるほど近く今考えても本当にラッキーだったなと思っています。
ただ、アメリカではアイダホ出身というだけで田舎者と馬鹿にされます。その中でもヘイマーはとびっきりの田舎です。おそらく日本人で住むのは後にも先にも私くらいじゃないか…と思っています。
Wikipediaによると人口は2019年のデータでは104人。このデータが正しければこんなに少なかったかと驚きなのですが、私がいた時も250人くらいといわれていたので確かに人が少ない町でした。高速を降りた町の入口には郵便局と教会、商店が一つ。これ以外の土地は広いのですが全て農地でした。
近くの大きな町(Idaho Falls)へは約50km(車で50分くらい)の距離でした。振内から苫小牧は1時間15分なのでそれよりは近いですね。
私がホームステイしていたのは子供が5人いる大家族で、子供は私と同じ年のChristopher(クリストファー)、下の子も比較的年齢が近く楽しい家族でした。子供5人いるのにプラス私も受け入れてくれる懐の深さすごいな・・・と当時思いました。
「アイダホポテト」という言葉はお聞きになったことはありますでしょうか。私が住んでいたのはまさにアイダホポテトのど真ん中を行く場所で、父親(ホストファザー)も農業法人の従業員でもちろんポテトにかかわっていました。
ポテトの収穫は9月なのですが、収穫最盛期には「ハーベストブレイク」といって学校が一週間休みになり、子供は皆収穫を手伝うことになります。日本ではちょっと考えられないお休みですよね。
当時の写真が残っているかなと思ったのですが、その時はまだデジカメもない時代であまり写真をとっていませんでした。当時の収穫時の唯一の写真が下です。
畑から収穫されたポテトが巨大なベルトコンベアーに流れてきます。それをメキシコ人が選別している・・・というのが当時の様子でした。
今自分が彼らと同じ農業にかかわることになって、当時の記憶を辿っていると面白いことも分かりました。
私が住んでいた場所はどこもかしこも農地だったというのは先程言いましたが、航空写真で見てみると・・・。
このサークルが何かというと全てポテトの農場になります。当時(1990年代後半)は航空写真など見たことがないので、こんなことになっているとは知りませんでした。
なぜこのようなサークルになっているのかというと、円形の農場の中央から巨大なスプリンクラーが円を描きながら回っているからです。当時はすごいスプリンクラーがたくさんあるなぁ…くらいにしか思っていませんでした。
私の住んでいた家はそんな巨大な農場の隙間を縫うようなところにあったのでした。
家のすぐそばに巨大なポテトの貯蔵倉庫があります
こんな感じですのでいつでもポテトは取り放題、食べ放題でした。また、一番近くの家も2km以上離れていました。
あと私が芋と言わずポテトというのは、日本のイモより巨大で完全に別物だと思っているからです。キタアカリ、インカのめざめといったものとはどうしても同じ種類と思えない大きさですが、味は美味しいです。
当時、農場ではたくさんのメキシコからの季節労働者が働いていました。9.11のテロの前でしたので、のんびりとした雰囲気で市民権を取るために試験を受けるんだといって問題を見せてもらったのですが、「アメリカ国旗の星の数はいくつか」「初代大統領は誰」とか、非常に優しかったのを覚えています。
牧場も多く、子供は10歳くらいになると牧場内でピックアップトラックを運転してお手伝いします。
当時免許を取れるのは15歳からでした。皆、高校に入学すると最初の年である15歳で校内で早朝行われるの教習を受けます(アメリカは中学が2年間、高校が4年間のため)。私も日本よりアメリカの方が免許の取得が安いので(試験代の3,000円くらい)一緒に受けました。
こんな感じののどかな町なのに学校の友達と話しているとお父さんは国の科学者だという人がいて驚いた記憶があります。
当時は知らなかったのですが、アイダホ州の東側のエリアというのは「核」に関しての研究所があり、おそらくここに勤務していた人がいたようです。数年前、その友達に聞いたらその通りと言われて改めて驚きました。
ちなみに高校は様々なエリアから集まってくるので4学年で120-140人くらいいたと記憶しています。
私の住んでいたアイダホ州ですが、キリスト教の教派の一つである「末日聖徒イエス・キリスト教会」、通称「モルモン教」の影響が非常に濃いエリアでした。モルモン教の総本山はアイダホ州の南、ユタ州ソルトレークシティーにあります。
モルモン教の成立の歴史も個人的にはとても面白いと思うのですが、今回は割愛します。
当時、ソルトレークシティーにあるNBA(バスケットボール)チームの「ユタ・ジャズ」は最強シカゴ・ブルズとファイナルで戦うなどしのぎを削っており、試合はとても盛り上がっていました。私も1度だけ日帰りで行った記憶があります。
当時の名前は「デルタセンター」で今は別の名前のようです
ちなみに私が最後にスキーをしたのが2003年のソルトレークシティーの郊外でした。2002年に冬期オリンピックが行われたこともあり、スキー場の案内がとても分かりやすかったのを覚えています。
今見るとどことなく富良野を感じさせる気がしますが、スキー場はどこも景色良いですよね。。
話はモルモン教に戻りますが、アメリカの中では「異端」とされており、キリスト教としても認識しない人もいると聞きます。
これには理由があり一番悪名高いのがその昔、一夫多妻制を奨励していたことです。現在はそのような極端なものはないとは言え、離婚禁止、飲酒・タバコ禁止、カフェインなどの刺激物禁止、子だくさんを奨励している・・・といった点が他の教派と違うユニークなところかと思います。
アルコールがない生活なんて無理、ヘビースモーカー・・・という人はモルモン教は諦めてもらう他ないのですが(笑)、教えを守っている人はどの人も本当に優しい人ばかりで、私は毎週日曜日に通う教会でいろいろな人と会うのは楽しみでした。いつも説教の途中で寝ていましたが・・・。
ただ、子育てという点では少し難しい印象を持ちました。
いろいろと禁止されているがゆえに手を出したくなるのが子供心。アメリカはアルコール・タバコを買うのに厳しいID確認(アルコールは21歳以上、タバコは18歳以上。州によって違いあり)があるので、日本のように青少年が簡単に手に入れられる環境にはありません。
ですので友達のお兄さん、親戚のおじさんなどにこっそりお願いして買ってきてもらい、みんなで郊外の人のいない湖で飲み会を行う・・・ということもありました。
束縛と感じる人は、高校を卒業すると宗教から離れるために他の州に引っ越すという人もいました。子供のころから宗教が生活の一部となっている場合、自分と違う価値観に出会った時どう振舞うか・・・というのは社会に出る上で試されることになるのかと思います。
そのための準備は大人が教え込むのか、子供自身がつかみ取る感覚的なものなのか・・・。皆その時のための準備をすると思うのですが、自分が親だったらどうするかは難しいと思いました。
いずれにしろ私は留学中に宗教についてしっかりと考える機会があり、今考えると本当に良かったと思っています。
田舎生活をどう楽しむか・・・私は現地でいろいろと悩みました。
私は当時野球が得意だったので、野球のチームに入ってみんなと仲良く・・・と期待していましたが、アメリカはセメスター(学期)毎にスポーツが入れ替わるので、8月に入学すると秋はアメフト、冬はレスリングやバスケ、春になってやっと野球のチームができます。
チームに入るためには選抜試験があり、アメリカのスポーツはど田舎でもレベルがとても高く、あまりやったことのない種目で試験に通ることは無理でした。とはいえ、春まで何もしないわけにいかないので、楽しく過ごすためにはどうすればよいかを考え、学校のいろいろな行事に出たり、スポーツチームのアシスタントをしてみたり、手あたり次第いろいろやってみました。
母親からレシピを送ってもらいお好み焼きを作ってみましたが、料理をしたことがなかったのでイマイチでした。残りものは飼い犬のセントバーナードに全部食べてもらったのは内緒です
そうしていく中で友達も増え、居心地も良くなっていきました。有難いことにその時のホストファミリー、友達、先生とは今でも交流があり、数年に一度会うことができています。
息子がもう少し大きくなったら、時間がある冬に連れて行く機会があれば良いなと思っています。何を感じるのか、感じないのか。ちょっと楽しみです。
初めて北海道を旅行した15年くらい前、私が高校時代を過ごしたアイダホの景色に近い感覚があり、どこか落ち着くものを感じていました。もし後先のことを考えなければ自分が住みたいのはここかもしれないと。
北海道での就農を決めたときに、このアイダホの時の経験と少しシンクロするような感覚がありました。いろいろと周り道して、かつて思っていた状況や場所とは違うかもしれませんが、自分が縁を感じて選んだ道ですのでそれを信じてこれからもやっていこうと思っています。
遠い昔の話ですが留学時の経験はきっと今の平取町、振内町での生活でも通じるものがあると確信はしているのですが、大人になって当時のようなエネルギーはなく、まだまだ平取、振内に馴染んだとは自信を持って言えないかもしれません。。
とはいえ、振内での生活リズムは私にはとても合っていると思っています。私たちが過ごしたのはまだ1シーズンだけですので、自分達でトマトを栽培するこの1年を通してどう変わるか楽しみでもあります。
進む道は自分で切り開いていく(居心地が良い場所にするには自分が動く)ことを大事にしたいと思います。その時は自分1人ではなくて家族で歩調を合わせて。
これで私が担当するブログは終わります。ありがとうございました・・・的な雰囲気になってしまいました。まだ3月いっぱいは可能な限り更新予定です!